松濤(しょうとう)は、
JR渋谷駅から東急本店通りの喧騒を抜けた東急百貨店本店/Bunkamuraの後背側の高台に位置します。
都内屈指の閑静な高級住宅地として有名であり、上場企業の創業者をはじめ、各界の著名人が数多く住んでいます。
<人口と世帯数の推移>
現在、松濤一丁目と松濤二丁目を合わせた住民数は、マンション建設が進んでいることから毎年増加を続けており、現在3,074名(男性1,419名、女性1,655名)、1,610世帯となっています。大使館や外資系企業の社宅も多く、住民の約1割弱が外国人です。(外国人数は男性149名、女性119名、計268名)
<参考> 渋谷区 住民基本台帳・外国人登録による人口から集計
<松濤の歴史と地名の由来>
江戸初期の頃、渋谷は江戸の府内と府外の接点に当たり、このあたりは、全くの場末の村はずれでした。
商業活動が活発になるにつれ、江戸の街が次第に拡大していきます。1657年の明暦大火後の復興の波に乗り、渋谷周辺で、いち早く街並みが整ったのは、広尾と宮益のエリアです。
渋谷周辺の中心道路は、昔も今と同じく赤坂・青山から宮益坂を経て、三軒茶屋、二子の渡し、溝口、厚木を通り大山方面へと向かう「青山通り大山道」であり、駒場の鷹狩場からほど近いこの松濤に、徳川御三家のひとつである紀州徳川家(第八代将軍の徳川吉宗、第十四代将軍の徳川家茂などが有名)の下屋敷がつくられます。
明治9年に、徳川家から旧佐賀藩主の鍋島家に松濤の地が払下げられ、鍋島家は失業武士の救済目的で、「松濤園」という茶園の経営を開始します。
この頃の渋谷界隈は畑よりも松林が多く広がっていたと云われています。 松濤園で生産されたお茶は、『松濤』と名づけられ、明治の東京市民に愛飲されていました。
「松濤」という言葉は、松の梢(こずえ:先端部)を渡る風の音が、あたかも海岸に打ち寄せる海の濤(なみ)のように聞こえることから、その風や音のことを「松濤」と言い、また茶の湯の釜がたぎる音を、この松風と潮騒に例えた雅名(風流な呼び名)です。
明治18年に渋谷駅が開設され、明治23年になると東海道線が開通します。静岡茶の流通が始まったことから、茶園は廃業となり、茶畑は畑果樹園種蓄牧場 「鍋島農場」に変わります。
鍋島侯爵邸の正門は、現在の東急Bunkamuraと松濤郵便局(シティコート松濤ビル)を両柱とする御影石の大門柱が建っており、ここから、現在松濤中学校となっている鍋島家本邸の玄関前まで車道が通じておりました。
大正末期の頃から、松濤エリアの大部分を占めていた鍋島家の農場の分譲が始まります。続々と当時の草原に大邸宅が櫛比するようになり、華族や事業家、政府の要職にある人たちを中心に、ひと区画が大きな邸宅街へと変貌します。
渋谷駅のシンボルである「忠犬ハチ公」の飼い主だった東京大学農学部教授の上野英三郎氏は、現在の渋谷区松濤一丁目に住んでおりました。上野氏が急死した大正14年から9年間、毎日渋谷駅前周辺で主人の帰りを待ち続けるハチ公の物語はあまりに有名です。
昭和2年には、松平邸(会津松平邸)が、現在の東京都知事公館のある場所に建てられ、秩父宮妃殿下(雍仁親王妃勢津子様)がここからお輿入れされております。
昭和3年(1928年)に、当時の豊多摩郡渋谷町が字名町名地番の改正を実施し、大山、神山、大向の各部分を合わせ、松濤園にちなんで「松濤」という優雅な町名が生まれたわけです。
昭和7年10月1日に渋谷区が誕生し、渋谷区松濤町となり、更に昭和38年の住居表示改正、大山町と大向通り、栄通、代々木富ヶ谷町の一部も編入して、今日の松濤一丁目、松濤二丁目ができました。
<松濤町会の歴史>
ここで、町内会の軌跡をたどってみましょう。
江戸時代の五人組にその端を発する町内自治組織が、次第に発展して、地域ごとに各町会となりました。
大東亜戦争中には『トントントンカラリと隣組』の歌に残るいわゆる「隣組」が住民の自治組織となり、食糧の配給、回覧版による広報などが日常生活を支える基盤となりました。そして隣組組織が戦中、街の防衛上の単位となり、町ぐるみの組織となりました。兎も角、地方行政の最末端としてご奉公した点で極めて大きな存在でした。
そして終戦とともに組織は瓦解します。
戦後昭和22年5月、町会長の公職資格についての問題が解決されなかったことが大きな原因となって、折角再建された全国の町会は解散してしまいます。
しかし、月日が経つにつれて、必要性から区内の地域を単位として、自治、防犯、親睦などを目的とする横の繋がりが出来、特に昭和26年の講和条約の締結後は、ほとんどの町内で、順次町会が再編されました。下意上達の点でやはり住民のための町内会は必要欠くべからざるものでしょう。
さて、松濤町会は、戦後はじめ防犯協会として町内会の事務がとられ、太宰氏が会長になられましたが、その後、松濤会としての町会が誕生し、後に松濤町会と改名されました。
戦後の松濤町会の歴代会長は、以下の通りです。
- 横田 秀松 氏 昭和32年頃~35年頃
- 黒須 三男 氏 昭和35年頃~49年5月
- 八木原 佐市氏 昭和49年5月~59年5月
- 浅川 静雄 氏 昭和59年5月~62年5月
- 千葉 徹定 氏 昭和62年5月~平成9年8月
- 志村 八郎 氏 平成9年8月~平成19年3月
- 平田 弁次 氏 平成19年3月~現在
<渋谷区指定の散策路>
町内には渋谷区が指定した「散策路」のルート(全長2.6km)があり、東急百貨店、Bunkamuraから松涛美術館を抜け、鍋島松濤公園、松濤中学、シェ松尾(フレンチレストラン)、戸栗美術館、観世能楽堂からNHKへ至るお散歩コースです。松濤町内には、歩道部分をレンガブロックを基調とした赤茶色のしゃれた舗道と円柱型のガードレールが整備され、サルスベリやコブシなどの街路樹が植えられています。実際に、松濤公園への道順を聞かれたり、お散歩されているご夫婦をよく見かけます。
<大向地区>
<公園>
<美術館・能楽ホール>
<神社>
大山稲荷神社